第11号
2005 年発行「同窓会のご発展を祈って」
これまでに「同窓会だより」に寄せられた退職教員のメッセージを少しく拝見させていただきました。在職中の出来事や思い出、さらにはご自身の履歴や近況に触れておられます。小生は、少しく観点を代え、総科同窓会のご発展のために参考になるかもしれない情報の提供と、若干の提案をさせていただこうと思います。と言いますのも、ここ十年以上の間、自身が文・理・教の三学部(研究科)を母体とする同窓会「尚志会」の理事・理事長を務めさせていただいている関係上、その運営の困難を痛感しているからであります。
どの同窓会でも抱えている最大の悩みは、財政の不安定、つまるところは会費納入率の低下の問題ではないでしょうか。会員にとって、最大の理由は「メリットがない」の一言に尽きるようです(勿論、小生には異論あり)。そんな中での大きな武器の一つである「名簿」ですらも、個人情報の保護の名目の下、極めて発行が困難な状況になりつつあります。新たな展望を得るためには、各種の工夫・仕掛けがぜひともに必要な昨今であります。
お涙頂戴式に、会員の同情・好意に頼るのではなく、地域別、卒業年次別、さらにはコース・プログラム別等の単位で組織作りを達成、充実し、これらの「支部」(仮称)の協力を介して会費の納入率のアップを図る必要があるでしょう。また、名簿に代わる武器として、はじめは個人情報の交換になるでしょうが、しだいに公益性の高い「会誌」を発刊され、同窓会の存在をぜひともに広く世間に周知・喧伝していただきたい。広く認知、評価されるようになれば、会員の意識は自ら高揚されるものです。
上記の実現のためには、ぜひともにきちんとした本部(仮称)事務局を置き、日常的に理事(?)が執務できる環境を整えることが肝要でしょう。幸いにと言ったら悪いのでしょうが、総科には空部屋はあるはずです。同窓会には、法人化が実施されたこともあり、今後ますます大学や学部より側面からの援助・協力が要請されます。その期待に身軽に応えるためにも、事務局空間の確保は重要では。
同窓会の役員の中枢部(理事)はどうしても総科出身の現役教員がボランティアで務めることになるでしょう。マンネリを避けるため、ローテーションを工夫し、会議費を予算化した上で年数回は実際に一堂に会し、諸案件を議すると同時に、役員間のいわゆるガス抜きをする必要があります。活力の失せた役員(会)から積極的な企画は生まれません。そして、当初は隔年でもよいし、小規模で結構です、総会の後に会食(宴会)すべきでは。
提案を一つ。それは会の名称です。「総合科学部同窓会」も三〇周年を迎えようとしておられますが、これを好機として、学部のモットー・精神を簡潔に示すような新たな名称にされてはいかがですか。現在の名称も悪くはないが、命名法が少しく陳腐で、いかにも意気が上がらない。「広大総科は世界に一つ」を標榜するに相応しいもの、例えば「飛翔会」ではいかがですか。
内情を知らない者の無用の発言であったことを恐れます。最後になりましたが、いずれにしても同窓会の盛衰は会員の皆様の意欲次第です。歴史の浅い同窓会ですので、会員の皆様に時間的、経済的な余裕が乏しいであろうことは推測されますが(失礼)、拙文をお読み下さった一人でも多くの方が改めて積極的に御参画下さる気持を抱いて下されば幸いです。同窓会のご発展、心よりお祈り申し上げます。
「大学勤務時代と変らない研究生活」
毎朝3時か4時に起床し、ヨハネ伝を十数ページ暗唱して、ポリュビオス『世界史』の脚注入れの作業を始める。この作業がまた楽しいのである。アレクサンドロス大王没後、四つに分かれたヘレニズム王朝、すなわち、マケドニアー王朝、プトレマイオス王朝、セレウコス王朝、アッタロス王朝、そしてペロポンネーソスのラケダイモーンとアカイア同盟が具体的な事件とともに初めて日本人の目にその実像を提示するのだから。そしてそれらの王朝が徐々にローマの支配下に入っていく。これほど面白い世界史の事件に日本人がこれまでまったく無関心であったことが不思議に思われる。さらにウォールバンクの注釈書にしたがって、プリーニウスの『博物誌』、ストラボーンの『世界地誌』、パウサニアースの『ギリシア記』、ディオドーロスの『世界史』、リーウィウス『世界史』あるいはアッリアノス『アレクサンドロス東征記』、『キケロー選集』をはじめとして若い頃から親しんでいたヘーロドトス、ホメーロス、トゥキュディデースの書、あるいはギリシャ古典として挙げられる、ありとあらゆるものをひもといていると、あっという間に一日が過ぎてしまう。この生活スタイルは大学に勤務してドイツ語、ギリシャ語を教えていた時とあまり変らないのだが、決定的に違うのは誰に気兼ねすることなく研究生活に埋没できることである。
涼しい頃は早朝、二時間余りの山歩きがこれに加わるのだが、真夏の時はそれは出来ず、毎日のように廿日市にある温泉アルカディアに通い、サウナを浴びながら快適に夏を乗り切ることができた。夜になると好きな酒を楽しみながらの夕食をとりつつ、そのまま就寝。
今にして思うと、大学に勤務しながらよくもこんな生活を続けてこれたなとふと思う。このような生活を許してくれ、退職後もこのような充実した生活を可能にしてくれた、広島大学総合科学部に対して感謝の念で一杯です。
「雑感――私の生涯研究と「大学院総合科学研究科」への期待」
退職してからはや半年余を経過しました。元気で福岡市の自宅で暮らしております。
30数年にわたる教員生活の過程で、「研究者=教育者としてやるべきことはやった」と満足しています。このことはひとえに、既に退職された方々をも含めて、周囲の教職員の皆様から頂いたさまざまなご配慮の賜物であると深く感謝しております。毎日が多忙です。依頼原稿の執筆、私が刊行した学術研究書に対する全国学会での合評会への出席、若手研究者から頼まれた博士論文の論評文の作成、全国から送られてくる著書や論文の読破等々、今年末まで私の著書への書評が主として全国学会誌に最低5点ほど掲載されますので、これにも対処していかなければなりません。ここ当分は、私自身の新たな研究に取り組む時間的余裕はなさそうです。
14年余しか勤務していないにも拘わらず、広島大学から名誉教授の称号を授与され図書館を利用できる特権が与えられましたが、福岡の地ではそれを活用できないことがとても残念です。しかし、前任校の図書館には私が文部省の私大助成で集めた膨大な原史料があり、それらを自由に利用することができます。図書館では館長はじめ教職員から大歓迎を受けております。九州大学から図書・資料を借り出すこともでき、広島を離れても研究の継続が十分可能です。
これからは、自分の専門であるアメリカ政治・経済史研究を一層深めるとともに、その成果との関連において在職中から勉強していた近・現代日本史の研究をも行いたいと考えております。暇を見つけては、旧産炭地にある個人や町立の資料館に足を運んでいます。展示品だけではなく、必ず、収蔵庫の資料も調査します。庶民の生活や従軍記録等の手書きの貴重な資料が陽の目を見ることなく眠っています。大学の教員を辞めても、研究者を辞めるつもりはありません。老後の楽しみは、研究をとおして自分自身で創り上げていくつもりです。
学部の創立以来の悲願である独自の「大学院総合科学研究科」が平成18年度からいよいよ発足するとのこと、慶賀の至りです。わが国の大学を取りまく環境は、アメリカを中心とするグローバル化と国家的財政破綻の進展に伴って益々厳しくなることは確実であり、大学改革は加速されていくことでしょう。いかなる改革が行われようとも、常に内発的な緊張感を保持しつつ、研究と教育をしっかりと行っていけば、怖いものは何もないというのが、私立大学と国立大学の双方で勤務して得た私の実感です。学内の管理・運営や社会への貢献も、これを果たしてこそ、より良く行えると考えます。皆様は充実した新たな大学院、そして学部を創りあげていくことでしょう。このことを、生涯研究を行いながら福岡の地から見守っていきたいと思います。
「スペシャリストとしての生き方」
このたび、総合科学部の社会環境研究講座に任期付教員として採用されました一期生の藤原成幸です。25年間広島市役所の職員であった私が、母校の教壇に立っています。まさに「青天の霹靂」といった事態ですが、どうしてそのようなことになったのかを最近やっと考える時間ができ、後輩の方々にも多少参考になればと思い、筆を取ることにしました。
私の経歴を簡単に述べておきますと、昭和49年に総合科学部の第一期生として入学し、大学院地域研究研究科を修了した後、昭和55年に政令指定都市に昇格したばかりの広島市役所に入庁しました。役所生活では、通算10年間は主に国が関係する計画の策定を担当し、経済産業省、旧郵政省、旧国土庁、旧運輸省等との折衝・調整を行いました。また、通算13年間は民間企業との窓口として、主に製造業、流通業、サービス業を担当するとともに、産業政策の策定や産業支援施策の創設を手がけてきました。さらに、広島市で初めて民間企業(NTT:日本電信電話株式会社)に出向したこともあります。つまり、役人人生のほとんどを計画及び経済のスペシャリストとして生きてきたわけです。このような生き方は、本来ジェネラリストを志向している公務員としては非常に珍しいことです。
このようになった理由ですが、私は得意分野を追求してきたからではないかと考えています。もともと調査・リサーチ関係を得意としていましたが、入庁2年目に経済の部署に配置されてからは専門的な勉強を続けてきたために、早くから庁内で一目置かれる存在になりました。NTTから戻った以降は、さらに情報化分野の専門性が高まりましたので、以前より一層その傾向は強くなりましたし、人事当局もそのような目で見ていたそうです。
そこで後輩の方々に申し上げたいのですが、ご自身の専門性を出来るだけ高めるような努力をして欲しいのです。つまり職場のスペシャリストを目指していただきたい。このためには不断の努力が必要です。何もしないで未来は開けないと思いますし、ときどき出てくるチャンスも受止められないと思います。今からでも遅くないと思いますが、これから頑張ってみられてはどうでしょうか。
「めぐりあわせ」
「いいですよ。全部引き受けますよ」
総合科学部助教授でもある広島大学文書館の小池聖一館長のその言葉に、私は本当に涙が出そうになった。04年夏の総合科学部三十周年記念同窓会の会場でのことだ。
小池館長が「引き受けますよ」と請け負ってくれたのは、01年に他界した父の遺した膨大な文献・資料のことだった。
話せば長くなるのでかなり端折るが、父は長く地元の新聞記者として被爆者や核の問題と取り組み、退社後90年代には広島平和文化センターの理事長を務めていた。このため実家は膨大な文献や資料で埋め尽くされていたのだった。
まがりなりにも大阪の放送局でずっと報道に携わっていた関係上、私にもこの中に重要な資料が含まれていることくらいはわかる(殆どはゴミかも知れないが)。
そこには、父が関わった原爆小頭症の会(「きのこ会」)の記録をはじめ、ヒロシマに関わる戦後五五年の文献・資料、それに原爆文学もほぼ網羅されていた。ただ一切整理はされていない。どうすればこれらの資料を、若手のジャーナリストや研究者に活用してもらえるだろうか…。広島でビルの一室を借り、資料の一部を運び込んでみたが、所詮個人で出来ることは知れている。私は途方に暮れていた。
個人資料は、散逸してしまえばそれで終わりだ。しかし父のそれは、戦後ヒロシマの半世紀余りの歴史そのものでもある―そう私は確信していた。本来なら公的機関が引き受けるべきものだと思うが、原爆文学資料を引き受ける文学館すらない広島では、どうしようもないのではないか…と一方で悲観してもいたのだ。
そうした時に冒頭の小池館長の力強い言葉! 地獄に仏、欣喜雀躍、鬼の目にも涙(カンケーない)。小池館長を紹介してくれた、総合科学部の同窓生で地元放送局の報道ディレクターを務める友人にも多謝!深謝!
小池館長曰く「図書館に寄贈しても死蔵になってしまう。文書館では有機的にデータベース化し、ライブラリーではなく、アーカイブとして整理したい。将来的には研究会なども立ち上げたい」。うむ、願ったりかなったり。
その後、大量の資料を文書館に運び出し、05年9月には文書館主催で『金井学校の二人展?平岡敬と大牟田稔』という企画展まで催していただいた。
広島を離れて20年。
「ヒロシマ」の持つ意味は、広島にいる時より、外部にいる時の方がその重みに気づくことが多いように思う。
父の交友関係の一部を引き継ぐ形で、私は新たな広島での交流が広がった。そして戦後のヒロシマと向き合ってきた父の遺した資料が、父と私の母校である広島大学で保存され、活用されるということに何とも不思議なめぐりあわせを感じるのだ。
広島、広大、文書館、それぞれと今後新たな関係を築いていけたら、と願っている。
「地域研究と主体について」
今年の8月5日から8日まで、総科で集中講義を担当させて頂いた。科目は、地域科学研究特論B。総科らしいと言うべきか、どんな内容の講義なのかまるで見当のつかない科目名である。どの地域をどう科学し研究するのか、特論ってのは専門的に特化した議論ということなのかな、などと余計なことを考えながら、またこの科目担当をお引き受けしたのであった。「また」というのはこれが2回目だということであるが、とどのつまり、2度とも講義は自分の専門に近い、大枠で言えば「イギリス地域研究」というところで用意させて頂いたというだけの話である(裏を返せば、そこでしか話はできないのである)。ただ個人的には、大学において「地域研究」という枠組みで講義を行うことには大きな意義があると考えている。
「地域研究」と、特定の地域を扱った所謂事例研究との間には様々な差異がある。その最たるものとして指摘しておくべきは、研究者の対象地域に対する関与の度合いであろう。その度合いが高ければ高いほど、より多くのことがわかってくる。無論、それと同じぐらいの度合いでわからないことも増えてくるのだが、わからないことが増えれば当然のこと乍ら対象についてもっと知りたくなる。「地域研究」では、長い時間を費やして対象と同化していくような感覚の知的営みが単一の地域に関して繰り返される。したがって、研究主体としてこれを実践する者は、容易に対象地域を変更することはできない。何しろ、他者を知ることでしか人は己を悟ることはできないのであるから。
大学入学から13年を過ごした広島を離れ、京都の大学で働くようになって今年でちょうど10年になる。18歳までを過ごした鹿児島を後にして20年以上が経過した計算になるが、これでまだ自分は鹿児島県人だと言うことができるのだろうか。帰省する度に老いている両親の姿がそう問いかける。イングランドで多くの人々と接し、伝統的な民衆の音楽やダンスに触れて地域や風土といった問題を扱っていると、自ずと個々人のアイデンティティの問題にも踏み込んでいくことになる。それは当然のこと乍ら研究者自身のスタンスとアイデンティティそのものをより明確にしていく過程でもある。「地域研究」の究極の意義はまさにそこに存するのだと思う。鹿児島弁で家族や友人たちと話していてすら危うく思える自分という存在。何か大切なものを忘れつつあるのではないかという危惧。自分が帰るべき場所はどこなのか。かくして「地域研究」に携わっていること自体が、私にとっては己を知るよすがとなっているのである。
大学時代に講義を通してそのようなことを考える機会が得られたなら、かくも有意義なことはあるまい。教員はこうした意図を教育の場で充分に伝えられるようその腕を磨いていかねばならない。自戒を込めて。
広島大学 総合科学部 同窓会 東広島市鏡山
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