第12号
2006 年発行本年度より2名の方が新たに同窓会理事となられました。
58年入学、62年卒業の宝官(ホウガン)と申します。珍しい苗字なので覚えていただければ幸いです。社会文化コースの木本先生のゼミで技術史を学んで?おりました。大学時代は諸先輩方や後輩達と麻雀などに明け暮れて、気楽な生活を過ごしておりました。
卒業後は鹿島建設に入社し、いつのまにか20年近くになります。現在は広島支店営業部に在籍し、主として建築工事の営業を担当しております。
同窓会の活動には全く縁がありませんでしたが、先輩からの指名ですので、頑張ります。よろしくお願いいたします。
この度、同窓会理事となりました03数理情報科学コース出身の秋信裕子と申します。
情報工学専攻で大学院へも進学させていただきましたが、そこで学んだ内容とはあまり関係のないローカル民間放送局に就職をしました。
さて、放送局が指標にしている視聴率には、調査対象をグループ化した「個人視聴率」というものがあります。CHILD(12歳以下)、TEEN(13?19歳)、F1・M1(20?34歳でFが女性、Mが男性)、F2・M2(35?49歳)、F3・M3(50歳以上)といったものです。番組を作る側はこの「個人視聴率」の方ではなく、世代を超えた全体の「世帯視聴率」の話をしますが、営業上の取り引き先である広告代理店の方々は個人視聴率のF1が取れている番組かが重要だと考えています。
相当個人的な話ですがつい先日誕生日を迎えまして、このF1グループ最後の歳(年)となりました。まさに節目の歳(年)と感じていますので、理事にならせていただいたことで、在学中には考えなかったこと、出会わなかったことに触れていくと思います。これから、よろしくお願いします。
「褒める、ということ」
僕が広島に来て総合科学部でモノを教えるようになったのは、昭和55年の後期からです。いま同窓会名簿を見て、思い出せる名前がある一番古い学年は、総合科学部第二期生にあたる「昭和50年度学部入学」の頁でした。学部の講義を最初に聴いてくださったのは「昭和53年度入学」の方、卒業研究に来てくださった方が出てくるのは、「昭和54年度入学」からです。そして在職中に最後の講義を聴いてくださったのは、同窓会名簿にはない「平成15年度入学」の方々ですから、ずい分長い年月を総合科学部でお世話になっていたことが判ります。この間、講義室や研究室で付き合ってくださった方々に、僕はほとんど「褒める」ということをしませんでした。その行為を封印していたんです。そのうえ、次のようなことさえ公言しておりました。
僕から褒められることを期待するなよ。褒めるという行為の中には、相手を見下した気持ちが確実に含まれているんだ。僕はヴァイオリンなら弾くけど、ピアノは全く弾くことができない。それでもね、姪っ子にソナチネなんかを聞かされたら、「上手だね。左手の和音がとってもいいよ」とかヌケヌケと言うことができる。それはその子を、人生に未熟な小娘として見下してるからだ。昔は僕もテニス部にいたことがあるから、多少テニスのことは判る。でもナブラチロワのサーブやネット・プレーに対しては、口が裂けても褒めるなんてできないね。いかなる意味でも、彼女を「見下す」気持ちをもたないからだ。僕は君らを見下さない。だから褒めもしないんだよ。
この話をするとき持ち出すのは、決まってマルチナ・ナブラチロワでした。昭和53年を皮切りに、57年から62年までの六連勝、最後の平成2年を加えると、ウィンブルドンで九勝を挙げ、四大大会での女子シングルスの優勝歴は十八回です。少し前にはキング夫人、同世代ならクリス・エバート、少し後ではシュテファーニ・グラフがいます。でも口から出るのは、「どんな男よりも男らしい女コンテストを十年連続で制覇した、世界一テニスの上手いレズビアン」の、ナブラチロワでした。
その僕が齢六十を過ぎた頃から、人に褒めてもらいたくなりました。いまの自分は、誰からでも、どんなことでもいいから褒めてもらいたい老人なんだ、と自覚しています。今までの僕は意地を張ってただけで、一皮むけば人間は皆ひとから「褒められたい」存在なんだ、と気づいたわけです。いろんな学会が退官(職)前後の老学者に「学会賞」を与えるのも、七十を過ぎた者が「叙勲」の対象になるのも、これ全て「人間の知恵」なんですね。今はただ、講義室で受講してくださった方々や、とりわけ研究室で骨身を惜しまず僕の興味に付き合いくださった方々に、もっともっと「褒め」の言葉をかけるべきだった、と後悔しています。ゴメンなさい。僕が未熟だったんです。
「法学部に勤務するようになって思うこと」
広島大学を定年退職した後、この2006年4月から広島修道大学法学部に勤務し、「民事法入門」とか「民法」といった法律科目の教鞭をとっています。私の専門が元々民法・民事法専攻であり、再就職の際の公募条件が「民法・財産法を専門とする者」ということで採用となったのだから、当然といえば当然のことです。
しかし、法律学科会議などに出席し、同僚の先生方による法学部法律学科の学生のための修学支援やカリキュラム改革などのこまかな議論を聞いていると、学生が法学ないし実用法学にいかに関心をもって学んでくれるようになるのか先生方がとても腐心している状況を改めて見せつけられて、私自身とまどいのような感じを抱くことがしばしばです。というのも、学生時代に法解釈学からなる実用法学を好きになれなかった思いが蘇ってくるからかもしれません。
法学徒でありながら、法学部に勤務し内部から法学教育に全面的に責任を持った経験を有していない自分に改めて気付き、身のおきどころを模索している感じです。しかし、総合科学部で培った、人間性に基礎をおいた広くかつ深い教養主義は、細かい専門技術的な実用法学を専攻する学生にとっても学問に対する関心を喚起するためには不可欠であると痛切に感じております。
「民法」は、実用法学が主流の法学部あるいはロースクールの中心科目のひとつですから、多分に専門的・技術的な細かな解釈論を駆使しなければなりませんが、その際初学者をしていかに法律学嫌いにしないようにするかに苦心を払っています。修道大学法学部には「環境法」の科目はおかれていませんが、「法社会学」で環境法を存分に教えてくださいといわれているので、それを楽しみにしております。私の「環境法」は、民法と法社会学を基礎として切り開いてきたものですが、そのベースには「人間性に基礎をおいた広くかつ深い教養主義」つまり総合科学の精神があります。
本年度前期には、広島大学法科大学院で8週にわたり環境法を講じる機会を得ました。後期には、同大学法学部および総合科学部でも環境法の集中講義の依頼を受けております。ちょうど富井編『レクチャー環境法』(法律文化社、2006年)も出版できましたので、それらを教科書として使用する予定です。
以上、近況報告にかえさせていただきます。
「爽やかさをもとめて」
気がついたら総合科学部に28年間(東千田から西条キャンパスに移転したときが中間点)おりました。なんとか無事退職でき、そして5カ月が経ちました。今年に入って3月までは、科研共同研究の成果のとりまとめ(編著として刊行)と研究室の片付けの仕事に追われました。4月は退職に伴う各種の事務手続や親戚・知人の葬儀でけっこう疲れました。5月は大学時代の同窓会と総合科学部OB会の飲み行事を大いに楽しみました。6月に人間ドックで臓器を点検し、7月には精密検査を何とかパスしました。8月は新生児(二人目の孫)を入浴させる手伝いをお盆明けまでつとめました。そして今、ようやく新天地に立った爽やかさのようなものを感じております。正確に言えば、爽やかな生活を求めて新たなスタート地点にたっています。
第二の人生をどうしたら爽やかに過ごせるのか。そのヒントを求めて5月中旬に旅―京都市と敦賀市―に出かけました。広島大学を退かれたあと画家に見事転身されたO先生のライフワークを観るため、京都の国際平和ミュージアムで催された「平和を築く展」に向かいました。先生の情熱と作品のメッセージ性にただただ圧倒されました。土偶や世界の多様な民族衣装をモチーフにして世界の恒久平和を祈念される先生の第二の青春は、生きかたの手本としてはウルトラ級のため萎縮しましたが、「人生の味を存分に味わい尽くしてください」という先生のお手紙に励まされています。
その翌日には、これまで10年ちかく文通してきた敦賀市在住のTさんに初対面して、日本の古典古代の舞台を案内してもらいました。大陸から流れ着いたともいわれる水仙の群生地で知られる越前海岸に連れていってもらい、Tさんが渡来人の上陸地点だと推定する村落の現在のたたずまいと日本海に落ち込む急斜面(広葉樹の原生林)を眺めながら、氏の説をうかがいました。次いで、木の芽峠(琵琶湖を遠望する畿内と越の国との境界)から鉢伏山を登って古代砦跡を歩き、遥か古の渡来人の世界を夢想しました。永く紡績関係の会社に勤められたTさんは、退職後は若狭敦賀地域の歴史・神話研究にうちこんでおられ、専門雑誌にいくつかの研究成果を発表されています。芭蕉ゆかりの場所で昼食をとったとき、この地域の山や神社の方位関係の不思議さに着目されている氏の最近の調査成果を興味深くうかがいました。歴史学はフィールド研究を踏まえないと面白くないと私は思っていますので、とても楽しい一日でした。
OさんとTさんは私にとって人生の大先輩―「バランスのとれた生活」の師―です。「爽やかさ」の鍵はこのバランスにあるのではないでしょうか。そう考えながら第二の青春をスタートしたばかりです。
卒業してはや11年経ちました。学生時代は、NHKのテレビ番組の影響をうけ、ものづくりのできる会社に入りたいという気持ちが強くありました。その結果、大学院を卒業後は、広島にある製造業の企業に就職しました。入社後は希望通りに電気関連の製品開発を担当してきましたが、上司の勧めで、4年間ほど東京のある研究所に出向して電気安全に関する研究に携わっていました。現在では、再び広島に転勤し、製品開発の仕事に従事しています。
会社に入社した頃、同期入社の同僚の大半は工学部や理学部出身が大半であり、自らの専門性の低さを感じて、いろいろな勉強をした記憶があります。
今振り返ってみると、当時は工学分野の専門知識が不足していてハンディキャップを感じていたのも事実ですが、会社の中で経験を積み重ねていくうちに、それらよりも会社でしか学べない大切なことを多く学ぶことができたと思います。
最近では,仕事で社外の研究会に参加する機会も増え、仕事やプライベートで同じ学部の先輩や同期と合う機会も増えてきました。彼らもこの11年の間に色々な経験をされ、いろいろなことを学ばれています。例えば、何度も転職した人、自営業を始めた人、大学に戻った人・・・、みんなとても苦労しているはずだけれど、そんなことを微塵も感じさせず、明るく、会うだけで元気付けられることもしばしばありました。
彼らには、私が仕事やプライベートで困っているときに、相談にのってもらったり、しばしば助けてもらうこともありました。今後は、彼らが困っているときにはできる限り協力していきたいと思いますし、今後も彼らと長くお付き合いしていけるといいなあと思います。
平成3年度入学生の津島と申します。11年間の広島での生活を終え、和歌山県の新宮に来て4年目になります。現在は新宮高等学校の教師として、日々仕事に追われながらも豊かな自然とおいしい魚介類を満喫する毎日を送っております。先日、大学院で同期だった大村先生からなつかしいお電話を頂き、この原稿を依頼されました。ちょうど、私の恩師にあたる総合科学研究科の於保幸正先生に新宮高校での講座をお願いしていたこともあり、本稿ではその高大連携の講座について紹介させて頂こうと思います。
子供達の理科離れが危惧されている昨今,それに対する文科省の取り組みの一つにサイエンス・パートナーシップ・プログラム事業(以下SPP)というものがあります。これは、大学・科学館等と学校とが連携しながら、生徒や教員を対象とした学習活動・研修を行おうという取り組みです。すでに新宮高校ではSPP事業を活用して、平成14?17年度にかけて、生物学の専門家による植物や水生生物に関する講座を開講してきたのですが、今年度は分野を変えて地学の講座を開講することになり、1月頃から於保先生と相談しながら計画を立ててきました。
講座は2日間の計画で、初日には地質学の初歩や大学での学びなどについての講義が行われ、2日目には「さらし首層」や「滝ノ拝」、「橋杭岩」など、紀伊半島南部の地学ポイントを巡検するという内容で7月下旬に無事実施されました。参加生徒は2年生、3年生の希望者20名だったのですが、地学が開講されていない本校の生徒にとって、地学の専門家から講義を受け、普段身の周りにある自然を地学的な視点から観察することは、非常に新鮮で貴重な体験であったと思います。実際に事後アンケートの結果も非常に好評でした。日頃の授業ではフィールドワークを取り入れていくことは難しいところがありますが、このSPPのような事業を活用することで生徒達にフィールドワークを経験させることは重要だなと実感しました。
お忙しい中、講座開講に協力して頂いた於保先生、TAの山口さん、派遣に応じて頂いた広島大学には、この場をお借りしてお礼申し上げたいと思います。どうもありがとうございました。
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広島大学 総合科学部 同窓会 東広島市鏡山
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