第15号
2009 年発行「アットホーム 懇親の輪ー80人で同窓会大会」
5年ぶりの同窓会大会は、2009年8月1日午後1時からメルパルク広島(中区基町)で開きました。参加者は前回より少ない80人足らずだったものの、退職の先生たちが多数駆け付けていただき、アットホームな雰囲気で盛り上がりました。
●フロンティア精神 賞賛
祝宴では浅原利正・学長、樫原修・学部長、尾形幸雄・旧制広島高校同窓会長から祝辞をいただきました。堀越孝雄・第9代学部長が乾杯の音頭をとり「23年勤めた総科は心のよりどころ。フロンティア精神あふれる卒業生の活躍は嬉しい。困難な時代こそ皆さんの真価が問われる」と激励いただきました。
●教え子より元気な先生たち
中国放送アナウンサー桜井弘規さん(03法学部)の司会で宴は和やかに進行。テーブルを囲んで懐かしい顔を確認しあったり名刺交換しあったり、あちこちで話の花が咲きました。退職された先生方が20人近くも出席して教え子より元気な姿を見せ、80歳目前の天野實・第4代学部長は現役時と変わらぬ張りのある声で「安芸の国」の合唱をリードされました。内海和彦先生は、前回と同様ボランティア撮影係を買って出られ、膨大なスナップ写真を後で事務局に送っていただきました。
●30年前にタイムスリップ
合間には1970年代の大学のオリエンテーションキャンプなどの学内行事や東千田キャンパスを写した「蔵出し」フィルムが上映され、40・50歳代のOB一同「そういえばあんなヘアスタイルだったなあ」などと当時にタイムスリップ。BGMもフィンガー5など1970年代後半のヒット曲が流れる演出でした。
●現役生も興味津々
参加者は51年・60年入学者が多く、平成以降の若いOBは少なかったものの、世代を超えた異業種交流の輪をそれぞれ広げていました。学部報「飛翔」の現役編集員3人も参加し、熱心に取材。次号で同窓会特集を組むとのことです。抽選会も好評で、参加記念品は「ひろだいそうかはせかいにひとつ」のロゴ入りマグカップでした。
総会終了後は、同期の2次会に流れて夜まで話が尽きなかったグループや、新球場マツダスタジアムで対横浜6ー3のカープ勝利にダブル酔いした人も多かったようです。
●同窓会名簿生かし発展へ
祝賀会に先立つ総会で前延国治会長(51環境)が「同窓会名簿を廃止する例もあるが、我々は活動の発展のため名簿を整備し続ける。ホームページを生かし、Eメールで意見とアイデアを寄せてほしい」と呼びかけ、全員の拍手承認を得ました。
前回の30周年の大会の後、総合科学研究科という大学院が誕生(2006年春)し、既にドクター修了生も出た。本日の出席者名簿を見て驚いたのは、退職された先輩の先生方がずいぶん多く、現役のほうが少ない。それだけ先輩の先生方がこの学部に親しみを感じて、いつまでも忘れられないでいてくださるのはありがたい。卒業生も同じようにいつまでも忘れず、40年、50年大会にも出席いただきたいと思う。大学は11月7日にホームカミングデー行事を行う。皆さんもぜひ参加いただきたい。
自分は新制広島大政経学部の1期生でもある。中国新聞に44年間勤め、総合科学部卒業生を社員として多数迎えた。総科の教育理念は新聞社の仕事にふさわしい。旧制高校は幅広い全人的な教養教育を担ってきたが、総合科学部の理念であるリベラルエデュケーションと一致する。5年前、総合科学部が資料展を開き、わが広島高校を源流と位置づけ認知していただいたことは、われわれ同窓生として嬉しい。歴史と伝統を引き継いでいただきこれ以上の喜びはない。「ひろだいそうかはせかいにひとつ」という心意気も素晴らしい。今後ますます総合科学部が発展していただくよう祈念する。
総科は、リベラルエデュケーション、学際新領域など斬新なアイデアで優れた教育をしていただき、歴史と業績は高く評価されている。総合科学部が培ってきた教養教育も充実させ、学士課程を通じた教養教育を行うべく平成23年度に開始できるよう進めている。また、広大の留学生が1000人いるが、5年後に倍増させ、広大の学生も海外に出かけて行って2つの学位を取るようにしたい。北京研究センターなど海外の広大拠点を活用してほしい。広大発展のためには、強いコミュニティの形成が大切。とくに卒業生を中心とした校友会は同窓会の集まりでもある。皆さんの健勝と活躍を祈念する。
「仕事以外に能のない高齢者」
平成21年3月に広島大学を定年退職し、4月1日より東京大学海洋研究所で特任研究員をしています。何より研究が継続できることが一番うれしいことです。それと30年ぶりに学生時代に戻って、独身生活を楽しんでいます。しかし昔と違って、今では銭湯もなく(最近銭湯を見つけて時々行っていますが)、食堂も早く閉まってしまうので、日常生活が大変です。これに銀行の振込みや、決まった曜日の朝の塵出し・洗濯などが加わります。今まで経験したことのない、些細なことが次々と出てきます。これが主婦業というものでしょうか?どうもこの主婦業がストレスとなって、睡眠不足に陥り(東京の日の出が早いのも追い討ちをかけた)少し弱っていましたが、今では慣れて結構朝寝坊をしています。人間というのは、結構慣れるものですね。最近では主婦業も板についてきて、いつでもお嫁に行けます。いや、いつ女房に逃げられても大丈夫です。
研究のほうですが、海水ウナギの腸のイオンと水の吸収に及ぼすGuanylin (GN)の影響を調べています。ウナギが淡水から海水に移行すると、腸のGN発現が増えます(とくにGoblet cellにおいて)。哺乳類ではGNが腸の粘膜側から作用し、下痢を引き起こします。そして、このGN受容体は大腸菌のEnterotoxin (ETX)に対して高い親和性を示します。しかしウナギの腸ではETXはほとんど効かず、ETX 受容体はないと考えられます。にも拘らず、GNは粘膜側から作用して陰イオンの分泌を促進します(水吸収の抑制)。海水ウナギで増え、腸での水吸収を抑制するという、一見矛盾するGNの生理的意義を明らかにしようと(luminocrineとしてのGNの役割)、現在実験を進めています。この実験も8月中には結論を出して(論文作成まで持って行く)、9月からは本来の、ウナギの飲水行動を調節する脳内神経回路を明らかにする実験(広島大学からの継続研究)に入ります。これも退官間際になってやっとテクニックをマスターしましたので、早くデータを取りたいと気が焦るのですが、雇われの身なので雇用者の要望にまず応えなければなりません。
これまで凡ては順調に行っていますが、ひとつ計算間違いがありました。それは移転です。平成22年の3月に海洋研は千葉県の柏に移転します。したがって現在は狭いところで、我慢をしながら実験を続けている状況です。年が明けると移転の準備が始まります。広島大学の移転の時を思い出します。2度とこのようなことはしたくないと思いましたが、東京で再び移転にめぐり合ってしまいました。もう一つ安いアパートを探さなければなりません。今の東京は若者の町ではなく、老人の町です。しかし、大家さんは1人暮らしの老人に部屋を貸すのを嫌い、今の部屋を見つけるのにも大変苦労しました。年齢差別を実感しました。考えれば気苦労は絶えませんが、そのときは何とかなる(する)と思っています。以上、東京での新生活についてご報告いたします。後期高齢者予備軍の安藤でした。
「イギリス文化研究を続けます」
総合科学部には平成2年4月から平成21年3月まで在職しました。その間、はじめは外国語コースに在籍していましたが、紆余曲折の後、地域研究講座に移動しました。在職中は改組の連続でした。しかも、それは内発的で、積極的な改組というよりは、人員削減をともなう消極的なもので、経済界主導の大学改革の影響を受けたものでした。
個人的なレヴェルでも、大きな改革を迫られた時期でした。当時、伝統的な知のパラダイムに目新しさが求められ、総合科学部でも、私が赴任して担当した授業科目は「言語芸術論」と銘打たれていました。これはいわゆる「文学」で生きてきた教員に自己改革を示唆する科目であったと言えます。このような授業科目名に戸惑っていた私に、ある先輩教授はこともなげに「文学作品の購読をやればいいんですよ」という助言をくれました。半期しかない授業でそれが可能であるか不安でしたが、シェイクスピアの作品を取り上げることにしました。果たして、最初の授業で、ある学生から、「授業は原文でやるのですか」という質問が出ました。「当然だ」と答えたものの前途に不安を感じ、翻訳での通読を課題にしたうえで字幕付きの映画で作品全体を通して観たり、エリザベス朝における演劇の成立を概観し当時の演劇の約束事を説明するなどしながら、なんとか作品講読の意地を通しました。いわば泥縄式に、私なりに総合科学部の授業をやったのですが、内心忸怩たるものがありました。
総合科学部では、ほかに「言語文化論」や「イギリス文化研究」などの授業を担当しました。いずれの授業においても、なんとか科目名と内容が一致するように心がけました。私が肝に銘じ、実践を心がけたことは、「どのような問題であれ、少なくともそれに関連する事柄については、それについて観察し、考えた人がいたこと、それについての記録があること」に考慮することでした。これは、ある意味では古くさい文献学の方法であると言えます。しかし、幸いなことに、イギリスには18、19世紀の博物学の隆盛を背景にした豊かな文献学の伝統があります。たとえば、「犬」に関する文献解題のひとつA Bibliography of the Dog: Books Published in the English Language 1570-1965には、16世紀後半から20世紀半ばまでの犬に関する文献が、「博物学」、「家畜化」、「飼育法」、「健康管理と薬」、「繁殖と販売」、「訓練法」、「スポーツにおける犬」、「芸術における犬」などの項目のもとに解題されています。最近の文献をMLAなどで検索して徹底をはかるなどしたあとは、興味のある文献を収集して、芋づる式に増える文献にあたることになります。これは、「ある事柄にはそれが成り立つ背景がある。ある文化事象はさまざまな要素の関連、せめぎ合いのなかで生まれる。したがって、それは総体としての文化のなかで眺められるべきである」という文化研究実践の第一歩にほかなりません。
退職後、文献の収集は少し窮屈になりましたが、これからも、このような方法で興味深いテーマを追求し、新たなものの見方を提示できる仕事がしたいと思っています。
「元の職場で非常勤講師として」
私は平成21年3月末に定年退職しましたが、4月からも私の1週間は、それまで同様、月曜1コマのパッケージ別科目「一神教の神・人間・世界」とともに始まりました。8時45分の授業開始のチャイムが鳴り終わり、学生の前に立っていったん講義を始めれば、非常勤講師であろうと以前の常勤のときと全然変わりありません。
しかし授業前後には、在職中とのいろいろな違いがあります。まずどこから総科の建物に入るかが違います。以前は通常、A棟の西側から入って、廊下をまっすぐエレベーターまで歩き、それで研究室のあった6階に行っていました。しかし今は、正面玄関から入ります。いや入らなければなりません。入り口横の事務室で毎回出勤簿に印鑑を押さなければならないからです。
その後M棟1階の非常勤講師控え室に行きますので、講義の前にいる所も違います。授業のプリントを印刷していると、ほどなく、私と同じくパッケージ別科目を担当しておられる朝倉尚先生がやってこられます。月曜1コマに来る非常勤講師など私たち以外には誰もいません。
なお、初めて非常勤講師控え室に入ったとき、驚いたのは、一面の壁全体にあるボックスに付けられた名札に、定年退職されたかつての総科の先生方の実に多くの名前があったことです。聞くところによれば60歳代の終わりまでなさる方もおられるとか。これらの方たちを抜きにしては、教養教育は成り立たないのではないかと思います。
さて翌日の火曜日の3コマ目に学部専門教育科目の「聖書学」も担当しています。それが終わると、その週の授業はもうないので、これが在職中との非常に大きな違いです。以前なら、ドイツ語の授業、会議日の水曜日、さらに2つの授業があった木曜日が続き、ほっとできたのはそれらすべてが終わってからでした。
このように外部の者として、元いた職場に毎週通っていると、大学というのは、少子高齢化の日本社会の中にあって、若者が溢れている所だということ気付きました。そして自宅にいるのは老人ばかりですので、在職中の経験から学生の中に問題を抱えている人もいることを知っていますが、やはり若者が溢れているだけで、何となく楽しい所だと思えてくるのです。
しかしながら私が総科で非常勤講師として仕事をするのは平成21年度前期だけです。予定通りことが進めば、今年の終わりには、かつて阪神淡路大震災後取り壊されるまで実家のあった兵庫県西宮市の土地の一部に、小さな家が完成し、私たちはそこに引っ越すはずなのです。西宮市が私にとって好都合なのは、そこに関西学院があり、その大学には、日本には数少ない神学部あるからです。聖書の研究を専門としている私は、そこの専門雑誌や図書を使わせてもらおうと思っています。こうして、老母の介護をしながら、これからも研究を少しでも続けることができるようにと願っています。
「雑感・半年経って」
まずは在校生や卒業生の皆さん、同僚や先輩の諸先生に感謝申し上げます。私は、大学で教えるということは若い頃全く考えていませんでした。総合科学部に職を得て21年間無事に勤めることができたのは多くの人たちのお陰であると思っています。
近況についてご報告しますと、半年経った今も生活は退職以前とあまり変わっていません。私の場合、人生に節目があると、住む場所も移動することが多かったのですが、例えば、ニューヨークからフィリピンへ、そして名古屋から広島へ、しかし現在はまだ広島に暮らしています。生活も、週一回、専門授業と英語を教える機会をいただき、リサーチも小規模ながら引き続き行っています。21年間は確かに長い時間ですが、一つの研究テーマ(「言語間におけるライティング能力の双向性」)を追求するには私にとってまだ十分とは言えません。
しかし退職前と決定的に違うものがあります。心の中に戻った自由です。一方で組織が与えてくれた安全と安心を失いつつ、他方では責任をもてば何をしてもいい自由。時間に追われない、自分が決められる一日のスケジュールは、退職者なら誰もが享受できるものですが、喪失と自由の狭間で私はまだ退職後の軸足をどこに置くか決めかねています。不安ながらも限られた時間の中で自分なりの人生を楽しもうとすれば答えは自ずと決まってくるはずですが。
私のもう一つの狭間は言語です。英語と日本語の間で戸惑っています。英語ライティングの授業では、学生さんに論理的な説明ができる力を鍛えていますが、最近始めた日本語の俳句作りでは、「説明しない」ことに私は苦戦しています。ジャンルの問題もありますが、一度獲得した知識やスキルを忘れること(“unlearn”)は容易なことではない。しかし本当は忘れるのではなく書く目的に合わせて使い分けができてこそ真の書く力ですが、なかなか難しいです。私自身の経験からも、文章構築の上で母語から外国語へ、外国語から母語への影響は否めません。事実、私が関わっている最近の研究では、英語の文章訓練を受けた人は日本語でも同じように書く傾向が見られます。もちろん様々な要因が外国語から母語への転移に影響を及ぼしていますが。現在は、二つの外国語(英語と中国語)に習熟した人が母語で、またそれぞれの外国語でどのように文章を構築しているかについて調べています。
現代は、水村美苗さんの著書にあるように、「英語の世紀」と言われ、日本語の危機が叫ばれています。私の場合、日本語への回帰は個人的なものです。日本語に真摯に向き合ってこなかったこと、日本語についてあまりにも知らなさすぎること。日本語をもう一度学びながら、また日本語と英語の狭間を行き来しながら、ジャンルや言語の違いを超えて表現するとはどういうことかについて考えてみたいと思っています。
最後に、退職して半年経った今、見えてくるものとまだ見えていないものがあります。退職後は人生の新しい扉が開くだろうと期待しましたが、現実の生活は以前とさほど変わりません。それでも今は次へと繋がる序奏であってほしいと願っています。なんとか健康を維持できていることを感謝しつつ、ゆっくりと歩み続けたいと思います。
「目指せ!エクセレントな先生」
いつもこう言うと怒られるのだが、私は素人である。教育学や工業教育についての専門知識や技能ははっきりいってない。教員免許更新も免除になったので時効だが、教育実習中に教員ともめて、あやうく単位を落とす寸前で救われた。その時の担当者の言葉はよく覚えている。「君はろくでもない奴だが、馬力はありそうだから可能性だけはつぶさないでおきます」。予想通り、採用試験に落ちて現実を知り這いつくばって頑張ったが、小さい頃から教職を夢み、高い志をもって努力している方には本当に申し訳なく思っている。
広大は教育学部卒を中心とする「尚志会」なる組織が堅固でその資料に次のような記述があった。「「広島大学ブランド」教員の到達目標を明確化し,それを達成するために学生がたどる行程の整備を図っている。広島大学の伝統と実績に基づき,「広大卒らしい教員」,例えば堅実,誠実な人柄で児童生徒への愛情豊か,教科指導・生徒指導力に優れ研究熱心,チームワークを大切にするといった教員の育成に努めたいと考えている。」教師は最初の3年が最も大切だと思うが、私の最初の3年間は独りよがりで失敗の連続で「広大ブランド」と全く対極であった。私は後先考えず挑戦して失敗しないと目標が立てられない性質である。そんな私を好きにさせてくれた京都市教育委員会には本当に感謝している。
夏目漱石のすごいところは、現代にも通ずる学校の教師集団の不可欠のキャラクターを提示したことである。「坊ちゃん」は退職してしまうが、そうさせてしまう事なかれ主義が教育をだめにしている。数学の秋山仁によれば、教師は学者・医者・役者・易者・忍者・伝道者の役割(校長はさらに芸者)を全部こなさなくてはならない大変な仕事である。総合科学部出身のハイブリッドな変人が「坊ちゃん」と「マドンナ」としてこれからの教育に欠かせないのである。
広島大学 総合科学部 同窓会 東広島市鏡山
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