第4号
1998 年 11月 5 日発行現在、私は社会人になり、「ひとつのことにこだわらず、関係のあることはすす んで学んでいこう」という信条で生活しています。一方、自分の子供が成長して いくにつれて、「私が大学時代に感じたことをどうやって子供に伝えていくか」 を考えています。少子化により誰でも大学に行ける時代がやってきたとき、『大 学で学ぶ』『研究する』といったことの意義が変質しているかもしれません。そ れでも「受験テクニックを駆使することではなく、広い学問の海で何かを発見す るために、その泳ぎ方を学んでおきなさい」と伝えていきたいと思っています。 この想いが、総合科学部で私が得た財産なのです。
大学三年のころ、学生食堂でランチを食べていました。私は頭の中の観念と現実 の不一致に悩まされていました。フーリエ級数と、この目前のトレイに盛られた 白いごはんはいったいどう関係するのか?シュレディンガー方程式で表される素 粒子の運動と、ゆげのたった味噌汁は、どうつながるのか?そう、つまり抽象概 念に対応する現実のイメージを待たず、それらは未消化のまま単なる記号として 私の頭のなかを浮遊していたのです。絵を描きだし、その行為に熱中するように なったのは単に勉強からの逃避でありました。絵を描くとは最も単純にいえば、 物を観察しそれを平面の上に画像として再現するという行為を繰り返すことです。
今思えば、私はそれによって現実感覚を取り戻すことができたのだと思います。
よく物理の教授が、図解してみればわかるといっていました。フレミングの法則 などはその典型的な例で、右手や左手の指をつっぱらせて、これが電流これが磁 場の方向とやってみた覚えがあります。私の場合は、理解を深める図解から、そ れが本業にいってしまった特別な例だと思います。本音を言えば単に落ちこぼれ ただけのことですが。
私の場合、言葉と映像が必ずペアになって存在します。言葉だけの理解というの は、どうやら不安を感じる性分のようです。もともと言葉は、象形文字から発達 してきた歴史を見てみれば、物がまず存在してその次に発明されたことがわかり ます。これは何々である。その「これ」があって、次に「何々」という名称が付 けられる。常に現実をもとに発達してきた。ところが専門化した学問の世界は言 葉が言葉を生み、最初の現実との接点を失ってしまった。全くの抽象論になって しまう傾向が強いのです。基本的用語の定義からして抽象的である場合も少なく ありません。教授や助教授の先生方はそういった問題をクリアーして理解にまで いたったのでしょう。でも私の場合、壁にぶち当たってなんだかわけがわからな くなってしまいました。今思うと残念です。
どうも愚痴のようになってしまいました。仕事のことを書くつもりだったんです。 現在クライアントの依頼で、出版物や広告のイラストを制作しています。イラス トがアートと違うところは、必ずテーマが与えられそれに基づいて制作をすると いうことです。文章を読んでその内容を絵にする場合、こちらの理解力や知識が 試されます。うまくイラスト化できない場合、心のなかに3Dが描けないのだと思 います。3Dとは立体映像のことです。立体物が存在していて、それをいろいろな 角度から観ることが出来る。それが可能なときはその対象を理解したといえます。 そうでない場合は、こちらの負けで、たいていは知識不足かそのせいで興味をか きたてられない対象を描くときにそうなります。
いろいろな依頼があって毎日けっこう面白いです。人体解剖図を描いてくれ。建 物のパースをお願いしたい。中国近代の歴史上の人物の挿し絵をかいてくれ。ビ ジネスマンガをかいてくれ。キャラクターをつくってくれ。そういった依頼が、 世界の多様さを象徴するかのように脈絡なくやってきます。
最後に、そうですね。「画像は理解を助ける」と言いましょうか。画像情報はコ ミュニケーションの道具としてとても役に立つ。21世紀は画像の時代になるんじゃ ないかと思っています。
退官した教官にとって何より嬉しいことは、総合科学部が教育研究面で成果を上 げることと、卒業生の皆さんが社会の各分野で活躍することです。そして在学生 にとっては、先輩諸兄姉の活動が一番の刺激となるでしょう。聞くところによる と、広島大学では総合科学部が先頭に立って、全学的な教養ゼミ(少人数教育) を始めたそうです。とかく受動的な学習に慣らされてきた学生にとって、教官と 密に接しながら、自主的に問題を捉え発表する訓練は大変有意義だと思います。 一方、同窓生の活躍ぶりはちらほら聞くことはあっても、余りよくは知りません。 「同窓会だより」には是非異色ある同窓生の活動をもっと沢山載せて下さい。
翻って私は、退官後2年間広島県立大学に勤務した後、いまは広島経済大学で教 養教育に専念しています。来年あたりから少し雑用が増えそうですが、いまは暇 を見て、リコーダーの演奏や男の料理など、趣味の生活を楽しんでいます。年寄 りのこんな現況報告はあまり意味がないのでこれで終わり。
同窓会の皆さんのご活躍を祈ります。
今から48年前の昭和25年、総合科学部の全身、教養部に入学しました。当時 の教養部は、現在の付属中高校(広島市南区翠町)の場所にありました。昭和4 2年に北陸の福井大学から教官として帰ってきたときには、教養部は旧キャンパ スの東千田町に移転していました。その後、東広島の新キャンパスで年間を過ご して定年を迎えました。教養部時代から通算28年勤務したことになります。そ の間起こった様々なことが、走馬燈のように眼前に浮かびます。
現在60代半ばの私たち戦中派は、戦中から戦後の高度成長期を経て今日まで、 教育制度においてもカリキュラムにおいても、様々な改革と変動を経験させられ た世代です。入学した尋常小学校は途中で国民学校に改称され、中学校に入学し たはずなのに卒業したときは新制高等学校になっており、卒業1年前には学区制 による高校再編成とかで無理矢理男女共学を経験させられました。改革の必要性 も十分教えられないまま、改革の渦中に放り込まれていたというのが実感です。
大学に勤務してからも、大学紛争、総合科学部への改組、キャンパス移転と、ま さに激動といってもいい経験をさせられました。その間建物は木造から近代的な ビルに変わり、教育研究環境も改善整備されました。このような変動の渦中にあっ て、このままでいいはずはない、変わるに違いないという予感と、変わるべきだ という確信らしきものがありました。今過ぎ去った歳月を振り返ってみるとき、 「人間は歳月とともに向上する・・とはいえ向上とは、夢か現実か。わが身は所 詮夢に囲まれて老いぼれる、流れの中の風雨にさらされたホラガイだ」(W.B.イェ イツ)という感慨があります。
21世紀を迎え、時代や社会のニーズに応じてこれからも大学は改革を迫られる でしょう。そのような変動の中にあって、変わらないものは何かを見定める必要 があります。今後、大学学部の改組や改革が進んでも、総合科学部の理念は不変 で、新しい時代に色あせることなく、21世紀の地球社会の多様な課題に十分対 応できると信じています。同窓会の皆さんの活躍と発展は、総合科学部の発展で もあります。後輩たちのために、今後とも同窓会の皆さんのご支援をお願いしま す。
広島大学 総合科学部 同窓会 東広島市鏡山1-7-1 souka-oba@hiroshima-u.ac.jp |