第8号
2002 年発行本年度より新会長の中氏の他3名の方が新たに同窓会理事となられました。
皆さん、お元気でご活躍のことと思います。私は総合科学部一期生(昭和49年入学)の中洋一郎と申します。総合科学部同窓会の初代の会長でもありましたが、なぜか、再び六代目の会長を引き受けることになりました。よろしくお願いいたします。
振り返りますと、昭和56年の同窓会創立以来21年が過ぎております。最初は数人の役員が細々と、会費徴収の作業と名簿作りに追われていました。それが今では、会員数約4,300名、このような「同窓会だより」の発行まで行える、安定し組織だった活動が出来る同窓会に発展しております。
さて、同窓会って何のためにあるのでしょうか?私にも的確にお答えできません。私事ですが、今年、娘が総合科学部に入学しました。特にけしかけたわけでもないのですが、なにか非常に嬉しい気持ちになりました。皆さんもどこかで総合科学部出身者と出くわしたら、きっと、その奇遇さと懐かしさが混じった、親しみと嬉しさを感じられることと思います。
私の知り合いに「群れることが嫌いだ」と言う者もいます。しかし、人生の中で縁あって同じ学部で過ごした仲間たちと、ゆるやかなまとまりをもつのも、良いことではと思います。私は、もう少し、会員のみなさんと情報交換ができればと思っています。幸運なことに世の中はインターネットの時代。とにかく一度、総合科学部のホームページ(http://home.hiroshima-u.ac.jp/soukaoba/)を覗いててみてください。そして気が向いたら、近況報告をお願いします。そして、まだでしたら名簿にe-mailアドレスを載せるため「名簿変更用フォーム」で追加連絡をお願いします。思いがけない旧友から連絡があるかもしれません。
同窓会では、会員の皆さんに、なにかもっと喜んでもらえることができないか模索しています。「こんなことして欲しい」などありましたら「掲示板」にどんどん提案ください。私自身は、かなり長く同窓会総会を開いていないことが気になっています。私が会長の間に是非一度企画したいと思っています。そのときに皆さん元気にお会いしましょう。
79年入学、83年卒業の畑尾武海です。社会文化コースでゼミは社会人類学の清水先生でした。とは言え、大学時代はコンパ、ソフトボール大会、大学祭等の学部活動(?)に勤しんでおりました。83年に博報堂に入社。東京に4年、大阪に5年、また東京に10年の後、19年振りに広島に戻って来ました。
突然の理事指名ですが、お役に立てることがあればと思います。よろしくお願い致します。
05生の市川貴之です。この3月(平成14年)に、(旧)物質生命科学コースの永井先生のもとで学位をとることができました。学生生活の9年間を全て総合科学部で過ごし、その後運良く今年の4月から総合科学部(藤井研究室)で助手として働くことになりました。と言うわけで当然の理事任命です。研究分野が変わり、日々忙しくしていますが、何とか暇を見つけて野球の試合(広島の大学教職員リーグ)に参加させてもらってます。
田中です。よろしく。
52入学、57卒業。社会文化コースでゼミは前半が谷田部先生、途中で亡くなられたため後期は、湯崎先生でした。勉学よりもミニコミづくりやイベント企画などで勇名?!をはせていました。
中国新聞社に勤務し、総科同期の竹原進一、松尾洋司の両君と一緒ですが、なぜか3人の入社年度はバラバラ。長く勉強したかどうかで差がつきました。社内には、3期生の古市雅之さんをはじめとして20人以上の総科卒業生がいるはずなので、まずは名簿づくりから始めたいと思います。
「無憂無慮無所求志在耕耘」
時間に追い立てられない、心楽しい年金生活の基盤を整えていただいた母校広島大学総合科学部に感謝します。国際化に応じた語学教育の在り様を模索したり、広く深く資料を渉猟し独自の専門領域の確立を目指すかつての同僚たちに、また、清々しい風を教室や研究室に吹き入れてくれた、学習意欲に燃え、礼儀正しい学生たちに、そして、おぼつかない私にさりげなくサポートの手を差し伸べて下さった事務の方々に、心から感謝しつつ、次のような日々を送らしてもらっています。
時計は無用。空が白みはじめると、庭に出て、植木や花に朝の挨拶をおくりながら、野鳥のために餌をまく。スズメの群にシジュウカラも混じりだした。常連のキジバトには最近連れ合いができて二羽でやって来るようになった。斜光に浮かぶ木の葉の清浄な立体感に、カメラを取ってくる。
午前中は『ニーベルンゲンの歌』の翻訳。これも、出版の予定などないので、4行から成る1詩節にこだわって、今日はここまで!といったのんびりした作業だ。昼食の後は、トーマス・マンの『非政治的人間の考察』の原文と格闘したり、ドイツ文学への憧れを目覚めさせてくれたヘルマン・ヘッセの『ペーター・カーメンチント(郷愁)』の暗誦をしたり、好きなドイツ語と戯れていると、いつしか眠気がおそってくる。
午睡から覚めれば、夕方の菜園に出て、一汗かく。キュウリとピーマンは豊作だった。皮の柔らかいトマトは喜ばれた。毎夏豊富にはできるが、どうやっても皮が硬く、素人園芸の限界かと、諦めかけていただけに感慨はひとしおで、となり近所におすそ分けした。でも、何が効いたのか、原因は分からない。星が出るころ、なした仕事のあとを眺めながら飲むドイツ・ワインは格別だ。
語学をやるには、なんと素晴らしい時代になったことか!夕食後家族とだんらんしたあとは、書斎に入ってひたすらライヴのドイツ語を聴く。パソコンのインターネットでARDのホームページにつなぎ、RadioNett のInformation を開けば10局ほどの、音楽の少ない情報専門のラジオ局が出てくる。うまく切りかえれば正時と半時毎にほぼ同じ内容のニュースが聴ける。これはほんの一例で、生のドイツ語へのアプローチは無数にある。弱点のリスニングを何とかできないものかと、初老の男ががんばっている姿はいささか哀れでもある。夜11時のニュース・アウトバーン情報・天気予報が流れるころには睡魔に負けてしまう。
気掛かりなことが一切ないままに帰郷したのは何十年ぶりだろうか。憧れの渡り鳥サンコウチョウの姿を一目見むものと、霧島神宮の杉木立を手始めに、数日間にわたって、しかも泊りがけで、ふるさとの高千穂連山の暗い木立の中を歩き回った。突然の豪雨で登山道が濁流になろうと、まったく慌てる必要はない。だって、夏休み明けの予定はない、否、夏休みそのものがないのだ。
自然の時の流れに身を任せたこのような生活は、やがて、目標が朦朧として来て、覇気も活気も失い、終いには無為へ落ちこむ危なっかさをはらんでいる。でも、この湯の心地よさよ!Danke!
総合科学部の創立の発端は、一九六〇年代後半の全国的な大学紛争であった。紛争の行き詰まりの打開の為に、教養部に改革委員会が組織された。封鎖された教養部の真向かいに在った図書館の会議室で、長時間にわたり繰り返し会議が持たれた。その時に練られた改革の骨子の中、幾つかは現在も我が国の大学改革の主流を為し続けている。それは、(1)真の総合大学の機能の為に、学部セクショナリズムを破る組織改革であり、(2)従来の教養的教育と専門教育の横割り制度を改め、くさび形にすることによって1年次から学習のモチベーションを徹底するカリキュラムの構築であり、(3)研究の学際性・総合性の醸成の為に大講座制への移行、等である。改革の素案作りに関わったメンバーは、巨大な概算要求を必要とする内容だけにとても実現できるとは思ってはいなかった。それだけに、キャンパスの統合移転をも含む、思いきった理想案を作成することができたのであった。
筑波大学が文部省主導の大学改革であったのに対し、広島大学総合科学部の創立は純粋に自主改革であった。これを文部省が全面的に受け入れるに至ったのは、一九七〇年前後のわが国にあって、日本の大学はこのままではいけない、しかしどうあるべきかが見えないという、如何に逼塞した状況にあったかを意味しよう。しかし、明治維新がそうであった様に、親方日の丸のトップダウン式でなく、自主的な体制変革には悲劇を避けることができなかった。ともあれ、日本史上唯一の大学維新は成功し、これ以降、我が国の大学改革は留まるところを知らぬが如く、世界的な激動の時代にダイナミックに対応し続けていると言ってよいであろう。
総合科学部の創立の成功の是非は、全国的な大学改革の先鞭となり得たかどうかを以て計られるべきではない。何よりも全国から優秀な若者が集まり、新しいシステムの下で学問を学び、彼らが社会のいろいろな分野に優秀な若手スタッフとして巣立ち、活躍しているということ。そして、学部・大学院のスタッフが、従来型の基礎研究と新しい学際研究において、世界に誇る勝れた研究成果を挙げ続けていることを以て計られるべきであろう。同窓生諸君は、諸君の若き日の学舎、総合科学部と関連大学院研究科を誇りとして、今後も大いに自らを鍛錬し社会人類にご貢献願いたい。
広島大学 総合科学部 同窓会 東広島市鏡山
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